Kompleks Graffiti

音楽、イギリス、哲学等について記していきます。

イギリス留学記〜「傘をささない」の巻〜

 

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 台風の影響で未明はひどい風雨だったようだ。雨といえばイギリスは雨が多いという話はよくされる。事実かどうかは統計を見ていないのでわかりかねるが、イギリスでの雨にまつわる経験はあるので今回はそれを記そうと思う。

 イギリス人は雨が降ってもなかなか傘をささない。雨の日に街に繰り出しても傘をさしているのはごくわずかである。さしているとしても大半は折りたたみ傘だし、折りたたみでない場合は何故かレースクイーンが使うような巨大なパラソルを使っている。傘をささないと言っても彼らが何も対策をしていないわけではない。日本に比べ、Hoodie(フード付きパーカー)を着ている人が圧倒的に多く、そして実際に雨が降るとフードを使って多少の雨は防いでいる。私はパーカーのフードの用途を留学して初めて知った。それまでは飾りぐらいにしか考えてなかったが(あるいは極端に寒い時にかぶるか)、イギリスでついにその真理を知ったのであった。

 ちなみにイギリス人のみならずヨーロッパ人はあまり傘をささないようだ。自転車のロードレースの解説・実況が雨が降ってきた際に、観客を観て、「ヨーロッパ人が傘をさしているってことはなかなかの雨ですよ!」なんて嬉々として言っているくらいだから事実なのだろう。

 ヨーロッパ人は傘をささないのは事実だが、私は日本との傘使用の違いは雨の質にあると考えている。ヨーロッパの雨は結構優しい。イギリスの話だが、雨の割合では霧雨が非常に多かった。故に多少雨が当たってもそこまで不快には感じず、フードさえ被れば対処できるし、短時間であれば上着がびしょ濡れになることはない。それに比べて日本の雨は粒が大きく当たると気になる。霧雨も少なく、降る時はしっかりと降ることが多く感じる。小さなところではあるがこのようにヨーロッパの自然は人に対してそこまで厳しくない。故に西洋では「知は力なり」というベーコンの思想などが出てくるのかと感じる。つまり自然から知識を得て、支配することが可能だと考えたわけだ。甚大な自然災害などに関してはなかなか自然の法則がを捉えることが難しいため、自然環境が安定した地域ゆえの思想なのかと個人的に推測している。

 日本に帰ってきて、最初はあまり傘をささなかったが、最近はすぐに傘をさしてしまう。そしてフードを被ることも少なくなった。自然環境がライフスタイルに及ぼす影響はかなり大きいようである。

教わることについて

  

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 高校時代個人で英語を習っていた先生から、背中を押すことはできるがやるのは自分だよと言われた。当時はそこまでこの言葉の意味を噛みしめていなかったと思うが、今でもその言葉を覚えているのは、この言葉が真実だからだろう。何かを習得したいと思ったらとにかく自分で動くしかない。

 時折どうやって英語を習得したかを聞かれることがあるが、様々な方法を提示できるとはいえ最終的には何でもよいからやればよいと思っている。何から始めればわからない人でも今の時代何かしらのとっかかりは1人でも探せるはずである。書店に行けば英語学習の本は簡単に手にはいる。ネットで調べれば英語の勉強方法なんて簡単に見つかるだろう。はっきり言えばそれぐらい自分で調べられないのであれば英語の習得なんて無理である。外国語を学ぶということは、常に未知の言葉に触れるわけで、分からなければ自分でどうにかするしかないのだ。英語の学び方すら自分で調べられないで今後どうする。

 教わりたいなら、なぜ教えて欲しいのかをよく考えるべきだ。自分は本が読めるようになりたいのか、作文ができるようになりたいのか、人と話せるようになりたいのか。どうやって英語勉強すれば良いですかという大雑把な質問では教える側も困る。英語の本が読めるようになりたいから簡単な英語で読める本を教えて欲しいといえばこちらも紹介できる。作文の能力をつけたいというのであれば、添削してあげますよとなる。

 そこで教える側ができることは結局背中を押すことだけである。読みやすい本を教えることはできるが代わりに読んで英語力をあげることはできない。自分で読んでもらうことでしか習得できない。添削はしてあげられるが添削する文章を作ってもらわなければならない。まず動くのは教わる側であればあるほどその人は伸びると思う。自分で動いたことによる成果は自分のものである。失敗したとしてもそれも自分の成果である。教えるというのはきっとその成果を最大化する手助けをすることなのではないだろうか。

 自分で動かないで教わりたい人のことを例えるならどこに行きたいのかわからないにも関わらず、道案内をお願いしているようなものである。それはお願いされた側も困る。ここに行きたいから道を教えて欲しい、ここに行きたいから必要なことを教えて欲しいというのが正しい教わり方である。行き先を決めて歩むのは自分であって他人ではない。そして自分で考えてやってみてこそ経験となるのではないのだろうか。まず自分で動くというのは自分も大事にして生活していきたいと思っている。

 

羽田空港サイクリング

 9/9(土)目的地:羽田空港 天候晴天 

9時25分江古田発。今回はパンク修理などの練習を兼ね、携帯空気入れで適正空気圧まで空気を入れる。携帯空気入れの購入後、初の実践。思いの外、空気を入れるのに力がいることが判明。翌日は腕の筋肉痛がひどかった。道路でのパンクを経験する前にこの実践を行えたことは今後へのいい準備になった。

 出発してまずは練馬付近から環七に乗り、南下を開始。ここから大森方面に向かう。環七は交通量は多いが、自転車レーンが整備されている為、走行は意外にも楽である。しかしながら信号の多さに難儀してしまった。車での走行の場合は交差点を立体交差で越えることができるが、この立体交差は基本的に自転車の走行が禁止されているため、必ず交差点を通らなければならない。自転車の速度との相性が悪くほぼ全ての交差点で停止を余儀なくされた。いいトレーニングだと思うしか、やり過ごす方法はないのだろうか。

 ひたすら環七を道なりに進むと大森東の交差点に差し掛かる。右折し国道15号(第一京浜)に沿って走行。そのまま左側に入り131号線へ。そのまま南下し大鳥居で環八に合流するのでここから羽田方向へ左折する。ここまで来ると羽田の地名が目に入ってくるので、だんだんと空港に近づいていることがわかる。途中に大きな建物に目が止まった。ヤマト運輸羽田クロノゲートである。その巨大さとモダンさが目を引く建物である。

 直進して行くと穴守橋という橋があり、そのあたりから羽田空港の全貌が見える。私が羽田を訪れるのは、1年前に中国へ行った時以来のことである。その時は夜だったため、太陽の下で見ることは初めてだ。ゆっくりと走りたかったため歩道を進み始めた。すると向かいから来る人が服を顔に巻いていた。天気が良く遮蔽物がないため直射日光が降り注いでいるとはいえ、大げさだなと怪訝に思ったがすぐにその理由がわかった。少し進むとパチパチと全身にぶつかってくるものが現れた。蚊柱である。最初は一つの蚊柱にぶつかっただけだと思った。しかし歩道は蚊で埋め尽くされていた。ずっと体に当たってくるので自分の体をみると、蚊だらけである。たまらず車道に逃れた。車道は蚊に襲われる心配がなく至極平和である。

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穴守橋からの風景-1

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穴守橋からの風景-2

 羽田空港国際線ターミナルに接近してみた。自転車置き場、あるいは多くの自転車が放置されている場所があったが、空港とはいえ自転車を放置することはしたくなかった。国際線のターミナルに来るとどこかに行きたくなる。とりあえずイギリスのパブに行ってうまいビールを飲みたい。

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国際線ターミナル

 空港の海岸側の方を走行してみる。そこからは多摩川河口を挟んで川崎市が見える。花王の工場のロゴが眩しい。また海の方に目をやれば風の塔が見える。海上にあのような建築物を作ることができる人間は恐ろしい。

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多摩川河口付近 遠くに風の塔が見える

 海の方から着陸して来る飛行機を見ることもできる。そして空港の道路を奥の方まで進むとトンネルに差し掛かる。ここは滑走路の下を走る道路になっている。下り坂になっているので速度に注意しなければならない。トンネル内は暗いのでサイクリングの際はライトも必須である。

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滑走路下のトンネル

 トンネルを抜けるとそこは整備区である。JALの整備工場などがある場所で、土曜日だからなのか、仕事中なのか人は全然いない。飛行機を見に来ている人が数名いたので同じあたりで飛行機を見学したが、見られたのは2機だけであった。

 帰路は全く同じ道を通った。総走行距離は約60km。最終的に膝を痛めてしまったため、しばらく長距離ライドは出来なさそうである。

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イギリス留学記 初めてのライブ

 イギリスでの留学を選んだ理由の1つがイギリス文化への興味であり、中でもイギリスの音楽シーンへの憧れがとても強かった。そんな私が初めてイギリスで観たのはバッド・ルーテナントのライブだった。バッド・ルーテナントとは何ぞやとなる方がおられると思われるため、まずどういうバンドなのかを書きたいが、個人的に好きなバンド2つが登場するため長くなる。

 バッド・ルーテナントはバーナードサムナーと言うギターボーカルによって結成されたバンドなのだが彼を語るには2つのバンド、ジョイ・ディヴィジョンJoy Division)とニューオーダーNew Order)の存在は避けて通れない。ジョイ・ディヴィジョンはイアンカーティス(Vo)、バーナードサムナー(Gt)、ピーターフック(Ba)、スティーブモリス(Dr)によって結成されたマンチェスター出身のバンドで、ポストパンクを代表するバンドである。ポストパンクというのは文字どおりパンクムーブメントから派生した音楽群でこれといった音楽的な分類はなされていないようである。このバンドは2ndアルバム収録を終え、アメリカツアーも決定していたなか、イアンカーティスの自殺で突然幕を閉じる。ジョイ・ディヴィジョンはイギリスではカルト的な人気のあるバンドでドキュメンタリー映画も作られているためぜひご覧になっていただきたい。

youtu.be

 

 残されたメンバーはバンドを続けることを決心してニュー・オーダーとして再出発した。積極的にシンセサイザーを用いて作られた曲はイギリス国民の心を捉え、その後の音楽シーンに与えた影響は計り知れない。Blue Mondayのドラムのイントロなどはとても印象的である。また1990年のサッカーW杯の際はWorld In Motionという曲がイングランドの公式応援歌となり、大体の応援歌がひどい曲であるなか、公式応援歌にしては珍しくいい曲だったらしい。

www.youtube.com


 ニューオーダーは2007年にピーターフックとバーナードサムナーの仲違いにより活動停止。バッドルーテナントはその後2008年にバーナードとニューオーダーのフィルカニンガム(Gt)によって結成された。

 そして私が行ったライブはバッドルーテナントにニューオーダーのドラマーのスティーブ・モリスも加わっている編成だった。これはジョイデヴィジョンとニューオーダーに影響を受けた身としては絶対見に行かねばということでチケットを手にいれたのであった。ライブはマンチェスターのThe Ritzと言う会場で行われた。歴史あるホールでビートルズも演奏したことがあるとのこと。嬉しいことに当時我が家から10分くらいの距離で学校の通り沿いにある。ああなんたる幸せ。

  会場に入りこれといってやることがないので前の方に行こうとするとすんなり行くことができた。みんなお酒を飲んで特に前の方で見るといったことには執着していないようである。そして比較的年齢層は高めであり、どこか余裕が感じられる。ライブの前からニューオーダーコールが巻き起こっていた。ライブをするのはバッドルーテナントだがイギリス人はこういった細かいことは気にしない。全員ニューオーダーの曲が聴きたいのだ。そして何より私もそうだった。失礼だがバッドルーテナントはいいからニューオーダーの曲が聴きたかった。

 ライブが始まると日本に比べて、あまり人が押してくることもなくみんなとにかく歌うことを楽しんでいる印象だった。そして何かとビールを投げる人が多い。やはりイギリスと日本ではライブの楽しみ方が違うなと感じた。日本は良くも悪くも真面目に観て真面目に盛り上がる。イギリス人はライブに対する熱は少し低いが、各々好き好き楽しんでいる感じがある。演奏する側としては日本の方がやりやすいかもしれないがイギリスの方がリアクションが正直であるため、自分の立ち位置がよくわかるのではないかと思った。

 正直に言うとこのライブは何ともスッキリとしないものだった。客はとにかくニューオーダーやジョイディヴィジョンが聴きたいがバンド側としてはバッドルーテナントとしてやりたいというミスマッチが起きていた。なお私はこの後イギリスで2度バンドと観客のミスマッチを見かけることになるがそれは機会があれば後日、記そう。

 そんな少しもやもやした気持ちとイギリスで初めてライブが観られたという感慨に浸りながら帰路についたイギリス初年の秋であった。

エネルギーを保存して新しいことを始めよう

 新しいことを始めるのは相当なエネルギーが必要だ。実のところ明日秩父の方まで自転車で行ってこようと考えており、人生初の輪行をする可能性があるため準備を行っていた。具体的には輪行のやり方の習得と必要なものを買い揃えた。特に輪行袋に自転車を入れる作業が神経を使うためひどく疲れてしまった。慣れない作業であることに加え私の自転車のフレーム素材であるカーボンはアルミより壊れやすいと聞くので余計気を遣う。

 そんなことをやっていた時にふと何でも新しいことを始めるのは相当なエネルギーを使うなと再認識した。自分が留学したときのことを考えると、よくそんなエネルギーがあったなと思う。今やれと言われてもちょっと厳しい。留学するためにやったことをリストアップすると

・英語の勉強

・IELTS(イギリス英語の試験)でのノルマ達成

・願書の提出

・ビザの取得

・航空券の予約

・住居の確保

・パスポートの申請

・高校の先生に推薦文を書いてもらう

などなど。

 少なくともこれくらいのことが留学には必要だったのだ。考えるだけで疲れる。これらのことをするエネルギーが当時はあったのだなと感心する。

 新しいことを始めるには相当なエネルギーが必要だとすると、日常生活でいかに上手にエネルギーを使うかで新たなことにチャレンジできるかできないかが変わってくるだろう。そうなると日々、上手にエネルギーを使う必要があるため、過剰に何かをすることは避けた方が良いと考えられる。日常的な暴飲暴食、過剰な労働、睡眠不足などは無駄なエネルギー消費だ。できるだけ起きている時間はやりたいことにエネルギーを使うことを目指すべきで、そのために日頃の生活における自分自身のメンテナンスが大切そうである。根拠はないが実業家などは見た目が健康そうな方々が多い気がする。自分自身のエネルギーを確保しているのだろう。

 日本は残業が多いため、睡眠不足や食生活の乱れなどが多く、エネルギーの「浪費」が著しいのではないか。個人個人がエネルギーを新しいことをすることに使えるようにすれば、イノベーションが生まれやすい環境ができると私は考える。哲学者バートランド・ラッセルは1日の労働時間を4時間にすればもっと社会は文化的になると語っていた。これは極端な例であると思うが余暇の必要性については同意できる。

 もっと日本は余暇を礼賛した方が、結果的に社会が良い方向に動きだすと思う。ただ皮肉なことに残業を礼賛し、有給の取得を奨励しないといった、日本に染み付いた労働の価値観を劇的に変えようとするエネルギーは日本には残っていなさそうである。

 

 

 

Implicit Biasと無記名

 日本の大学については経験がないのでわからないのだが、イギリスの大学の提出物とテストは無記名で学生番号のみを記入する。一年目に名前を書いて提出したところ注意された。なぜ名前を書いていけないかというと採点に影響が出るからである。

 どのような影響かというと偏向である。名前がわかることで性別、出身国などの情報がわかってしまう。これは人によっては採点に響いてしまう。酷い採点者であれば露骨に差別を行い、例えば女性や外国人に悪い点数をつけることもある程度可能である。

 しかしこの問題は意識的に採点を偏向してしまうこともあるのだが、無意識に偏向してしまう場合である。このことを英語ではImplicit Bias (インプリシットバイアス)という。日本語に訳すとすれば潜在的偏向とでもいうだろうか。とにかく、無意識に差別をしてしまうことのことを指す。興味がある方は以下のサイトも参考にどうぞ。

https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/takeatest.html

 自分が差別する人間だと思っていない場合でも差別を無意識にしてしまうことがあるため、大学での採点者が無意識に点数を傾けてしまうことはあり得る話である。例えば提出物が女性のものだとわかると、意識していなくてもそれが論理的ではないと感じることもあるようだ(出典がなくて申し訳ない)。よってテストや提出物を無記名にすることは非常に合理的である。むしろ社会全体としてその方向に進めていくべきだ。

 私は日本は差別に鈍感だと思う(差別に敏感すぎるのもそれはそれで困るが)。履歴書には顔写真から年齢まで載せる。当然外見なども判断基準に入っているわけだ。スキルのみで判断しようという気がないのだろうか。外見に自分の評価が左右されてしまうなんてことに無自覚な人ばかりなのではないだろうか。余談であるが手書きで書かせることもある意味で私のように字が上手でない人間への差別である。字で相手の人格がわかるなんて心理学者でもないくせに人の人格を判断するべきではない。日本人は何かと外見に人格を投影させたがる性質があるようだ。このような習慣はできるだけ早くなくした方が良い。クールジャパンだとか与太を飛ばしている暇があったら少しは外国から、このような無記名などの良い文化を積極的に取り入れて欲しい。

楽しみ方は人それぞれ

 何か物事をするときに誰かと一緒の方が楽しい、1人だと楽しくないと考える人がいる。そして独りで何かをしてきたというと寂しくないのかなどと言ってくる人がいる。独りでも物事を楽しめる人からすると、独りでの楽しみ方は別物である。つまり独り以上の楽しみが誰かと一緒だと確保されるわけではなく、それらはお互いに独立した楽しみであり、量的に優越は付けられないと考える。

 独りの楽しみはとにかく自分に忠実な楽しみ方が出来るという大きなメリットがある。誰かのペースに合わせることなく自分の好きな物を気兼ねなく味わえる楽しみは誰かと一緒では経験できないものだ。美術館などを誰かと一緒に行くと、気を遣ってしまう人は自分の楽しみを疎かにしてしまうことがあるのではないか。私は趣味でサイクリングに行くが独りでも楽しいし、現在のところ誰かと一緒にサイクリングしたいとも思わない。寂しいとも全く思わない。サイクリングがしたいのだから私は独りでもサイクリングがしたいのである。

 しかしながら私は誰かと一緒に楽しむことが嫌いなのではない。例えば人と旅行に行くことが嫌いなのではない。これらは別物なのだ。独りでは味わえないエネルギーの使われ方が誰かと一緒だとなされる。自分独りではやらないようなことができるのも自分の世界を広げてくれるいい機会である。独りの楽しみは基本的に静だが複数での楽しみは動であると考えられる。従ってそれぞれ楽しみの質が根本的に異なるのである。

 独りでの楽しみが理解できない人は独りで楽しめる人と目的意識が異なるかもしれない。行動の目的を旅行の目的が誰かと一緒にどこかに行くことであるのならば、もしもそれが頓挫して独りでの旅行になればそれは楽しくない。なぜなら目的を達成できていないからだ。しかし旅の目的が、例えば清水寺に行くことであれば独りでも達成できるのである。どうしても行きたいという気持ちが強ければ強いほど独りでも達成しようとするだろう。よって独りで楽しい人は独りで目的が達成されているので、それだけで楽しいのだ。

 楽しみの質が違うということを意識すればそこに優劣がないことが分かる。違うものなのだから比較はできない。ギターとドラムがどちらが優れているかなど問題にならないように、独りで楽しむことと、誰かと楽しむことは本来問題にすらならない。

 楽しみなんてものは当人が楽しければなんでも良いのである。そこに他人が文句を言う権利はない。独りでは何も楽しめないのはそれはそれで独りの楽しみという1つの楽しみを失っており、独りでしか何も楽しめないのはそれはそれで誰かと楽しむという1つの楽しみを失っているのだ。どちらもバランス良く楽しむのが一番贅沢なのではないだろうか。