読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Kompleks Graffiti

音楽、イギリス、哲学等について記していきます。

「夜と霧」を読んで〜生きる意味とは〜

 今回は読もう読もうと思いながら何年も読まずにいたフランクルの「夜と霧」の感想を書きたいと思います。

f:id:Kompleks:20161007220643j:plain

 この書がとりあげているのは第二次世界大戦ナチスによる強制収容所での人間の心理の話。

 

 個人的には人生の意味に関する記述がとても興味深かったのでそこに触れていきます。

 

 フランクルが分析するに、この強制収容所という絶望的状況を生き延びた人と力尽きてしまったひととの違いは生きる希望を持てたかということ。強制収容所では生きる目的を見いだせなかった人は身体的にも弱り病気で死んでいったそうだ。しかし強制収容所という環境で生きる意味など持てるのでしょうか。フランクルは生きる意味を失ったと嘆く人にどう接すればよいのかを考え、根本的に生きる意味を問うことそのものを考え直すことに至った。

 

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

 

 自分が人生に期待を持つのではなく、人生の方が自分に期待をしていると考えること。フランクルは例として、誰か愛する人が待っている、未完にしていた仕事が待っているというものを挙げています。自分を待っているものがあるのであって、自分の求めているものを期待するのではないということ。そして自分を待っているものを知ることで現在の苦しみなどにも耐えることができる。

 

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

 

 そしてフランクルはこの自分を求めてくることが恒常的であるとは考えていない。その時々によって各人が求められることは違う。フランクルは生きることの定義をこう捉えている。

 

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に貸す課題を果たす義務、時事刻々の要請を充たす義務を引き受けること

 

 よって生きることを一般化することは出来ない。その人にとって人生はその人だけのかけがえのないものであり、誰にも代わってもらうことは出来ないのです。そして人々は常にどのような状況でも(例えアウシュビッツのような極限状況でも)生きることから問われることに自由に答えることができ、そして自由であるがゆえにその人の人生は唯一のものになるとフランクルは考えました。

 

 実はフランクル強制収容所に収容される前から人間の精神において生きる意味が重要だと考えていたようです。フランクルの考案した「ロゴセラピー」がそれを体系化したものにあたります。ここで触れるとなかなか長くなってしまうので興味のある方はリンク先を御覧ください。http://www.ningengakkai.or.jp/about/frankl.html

 

 やりたいことをやって生きる、楽しくなければ人生ではないなど人それぞれ生きることを考えていると思いますが、それはどちらも自分が求める主体となっている人生観です。極限状態を生き残ったフランクルは、180度違う人生が求めてくるという結論に至ったようです。なかなかここまでの考えは浅薄な自己啓発本などでは見当たらないでしょう。

 正直なところ私は完全にフランクルの考えを咀嚼しきれてはいないと思いますが、自分が何をしたいかではなく、自分がその瞬間瞬間で何を求められているかを考えることは自分を別な視点で捉える良いきっかけになるのではないでしょうか。自分でやりたいことが出来ていて幸せな人はそれでいいと思いますが、みんながみんなそのようにできるわけではないでしょう。アウシュビッツのような状況でなくとも、自分が思いもよらない病気になってしまったり、周りの人が介護が必要になったりします。こうすると自分のしたいことはできなくなってしまいます。そのような状況でも生きる意味を持つことの大切さと持つためのヒントをこの本は教えてくれます。

 しかし果たして、精神病になっている人がこのように人生を捉えることが果たしてできるのか、つまり自由に選択をすることができるのかどうかは疑問に残りました。

 

 今回取り上げた部分はこの本のごく一部なので興味を持たれた方は是非ご一読ください。 

 

参考文献

ヴィクトール・E・フランクル 夜と霧 池田香代子