Kompleks Graffiti

音楽、イギリス、哲学等について記していきます。

教わることについて

  

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 高校時代個人で英語を習っていた先生から、背中を押すことはできるがやるのは自分だよと言われた。当時はそこまでこの言葉の意味を噛みしめていなかったと思うが、今でもその言葉を覚えているのは、この言葉が真実だからだろう。何かを習得したいと思ったらとにかく自分で動くしかない。

 時折どうやって英語を習得したかを聞かれることがあるが、様々な方法を提示できるとはいえ最終的には何でもよいからやればよいと思っている。何から始めればわからない人でも今の時代何かしらのとっかかりは1人でも探せるはずである。書店に行けば英語学習の本は簡単に手にはいる。ネットで調べれば英語の勉強方法なんて簡単に見つかるだろう。はっきり言えばそれぐらい自分で調べられないのであれば英語の習得なんて無理である。外国語を学ぶということは、常に未知の言葉に触れるわけで、分からなければ自分でどうにかするしかないのだ。英語の学び方すら自分で調べられないで今後どうする。

 教わりたいなら、なぜ教えて欲しいのかをよく考えるべきだ。自分は本が読めるようになりたいのか、作文ができるようになりたいのか、人と話せるようになりたいのか。どうやって英語勉強すれば良いですかという大雑把な質問では教える側も困る。英語の本が読めるようになりたいから簡単な英語で読める本を教えて欲しいといえばこちらも紹介できる。作文の能力をつけたいというのであれば、添削してあげますよとなる。

 そこで教える側ができることは結局背中を押すことだけである。読みやすい本を教えることはできるが代わりに読んで英語力をあげることはできない。自分で読んでもらうことでしか習得できない。添削はしてあげられるが添削する文章を作ってもらわなければならない。まず動くのは教わる側であればあるほどその人は伸びると思う。自分で動いたことによる成果は自分のものである。失敗したとしてもそれも自分の成果である。教えるというのはきっとその成果を最大化する手助けをすることなのではないだろうか。

 自分で動かないで教わりたい人のことを例えるならどこに行きたいのかわからないにも関わらず、道案内をお願いしているようなものである。それはお願いされた側も困る。ここに行きたいから道を教えて欲しい、ここに行きたいから必要なことを教えて欲しいというのが正しい教わり方である。行き先を決めて歩むのは自分であって他人ではない。そして自分で考えてやってみてこそ経験となるのではないのだろうか。まず自分で動くというのは自分も大事にして生活していきたいと思っている。